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いわて*まにあ

東北・岩手県(主に県南・ちょこっと宮城県北も)の暮らし・遊び・風景・名物・良いとこ・イマイチなとこなどなど、美化なく等身大でお届け!

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3.11 あの時何が起きていたのか①

やっとネットの方も復旧しました。

3月11日 2時46分

わたしはその日もパソコンでネットをしていました。
家族は食材等を買いに出掛けようとしている時でした。

突然ガタガタと家が鳴り、地震が来たのだとすぐにわかりました。
岩手県南は大きい地震も何度も来ているし、地震には慣れていたのでこの地震もすぐに止むだろうと思っていました。
ところが、地震は収まるどころか、どんどんと揺れを強くしていき、とても家にはいられない状態に。
急いで外へと逃げました。

まだ地面は揺れていました。
玄関に戻ってみるましたが、まだ家の中がガタガタと強めに揺れていたので中に入るのを諦めました。

わたしの家は国道沿いにあります。
見ると向かいの空き地には、地震に驚いた車が何台か停まっていました。
そういえば通る車もやけに減っています。

お隣の家の安否を確認してから、どんな様子だろうと家に戻ると、まだどこからかゴォーっとした音がし、家がカタカタカタカタと鳴っていました。
『こんなにずっと揺れてるなんて・・・・気のせいだろうか』
そうも思いましたが、気のせいじゃないのです。

揺れに怯えながら、家に戻るともう停電していました。

震度がどれぐらいのものだったのか知りたかったのですが、テレビが見られないうえに、携帯のネットもつながりにくくなっていてやっぱりわかりません。

家に戻るのも不安、外は雪も降り始めていたのでしばらくお隣のおばあさんと飼っていた文鳥と共に車の中で避難していました。
父は近所の様子を見に出掛けました。
避難した車の中で宮城県利府町に住む従妹のメールをしてみました。
従妹も同じく車の中に避難し、車のテレビを観ているとのことでした。
地震直後だったのでその時はまだ津波の被害がどれほどだったのかわからなかったみたいで、従妹からは「凄いことになっている」という内容のメールはその時はありませんでした。

どれぐらい時間が経ったあとなのかわかりませんが、車のラジオを聴いていると「津波」が来ている(あるいは来た?)とのことでした。
「津波」という言葉は聞き取れましたが、興奮していてほとんどラジオの内容が頭に入ってきてなかったようです。
どこへ来た津波のことかは覚えていないんですが、ラジオでは
「車が多数流されています!家も流されています!」
との情報が流れていました。
その時わたしが想像した津波とは、去年のチリ地震の津波程度のものでした。
津波はひざ下ぐらいでもものすごい力があるとよくテレビで見ていたので車ぐらい流されてしまうだろうなと。
でも、時間を追うごとに津波の高さが4m、7m、10mなどと報道され、それでも最初はその数字にピンと来ずどれだけ大きな波が迫ってきていたのかその深刻度合いに気づかずにいました。
しかも、気仙沼だの、陸前高田などよく知っている地域がまさかあんなことになっていようとは。

そんな大事になっているとはまったく知らずにいた頃、わたし達は、今晩の食事はどうしようと考えていました。
地震から1時間経った頃、父と一緒に隣町まで買い物に出掛けました。

車は少し渋滞気味。
信号までも停まったままですから。

いつも買い物しているスーパーへ向かっていると、できたばかりのコンビニが車でいっぱいになっていました。
そのコンビニを通り過ぎ、いつものスーパーへ来ましたが、閉店していました。
引き返して、車でいっぱいだったコンビニに寄りました。
すると、お弁当などの棚はほぼ空状態。
カップめんがたくさんまだあったので、カップめんと、カロリーメイトのようなものを買って行きました。
中には水のボトルをたくさん買い込んでいる人もいて「わー大袈裟な」と内心思っていたのですが、後々断水にもなり(あるいは断水の恐れ)、あの人は先をよく見越していたなと感心しました。
こういう時はどんな可能性も考えておいた方がいいんだなと思いました。

買い物から帰ると、奥州市に仕事に行っていた弟がもう帰ってきていました。

もう家が揺れている感覚もなくなっていたので、家に戻ることにしました。

幸いと言うのか、昨年末に一度、長い停電を経験していたので、冬の停電の夜の過ごし方は心得ていました。
反射式のストーブも2つあったし、電池式のランプもありました。
ただ、灯油は保管しているものがポリタンク1個だけでした。

我が家は、なんでもマメに補充するタイプではなく、ぎりぎりまで待って買いに行くタイプだったのでいろんなことが大変でした。
灯油も今度の日曜日に買う予定でした。
食材も地震に遭うその日、その直前に買いに行こうとしていたところで、冷蔵庫はほぼ空でした。
お米は精米したばかりだったので大丈夫でしたが、これもいつもほとんど空になってから精米しに行くので危ないところでした。
ガソリンも同じこと。
給油はいつもぎりぎりになってから。
今回は幸い余裕があったから良かったですが、弟の車はガソリンが無く、地震があったその日を最後に動かしていません。

これからは、もっと余裕をもって補充なりしないとなと思いました(こんな時の買いだめはダメ。普段から用意しておかないとね)。
常に在庫がある状態が望ましいな、と。

地震初日の夜は、ガスが使えたのでカップめんを食べました。
そのガスもいまだいつ補充されるかわからない状態です。
電気が復旧するまであまり何も考えずにガスを使ってしまったなあと反省しています。

まさか、一週間以上経ってもガスもガソリンもこんなに不足状態が続くとは考えていませんでした。

寝る頃になって祖母の電気毛布が使えないと思い出し、予備の湯たんぽがなかったのでペットボトルにお湯をいれ湯たんぽ代わりに使ってもらいました。(ペットボトルはお湯が入れられないタイプのモノもあります)

夜は携帯ラジオがあって助かりました。
ウチはラジオが普段から入りにくいです。
特に昼間は。
千厩もラジオが入りにくい地域だったはず。
ラジオすらも聞けないと心細いです。

寝る前に弟の車で少しテレビを観ることができました。

そこには、火に包まれている気仙沼の様子が映し出されていました。
目の前で放送されているものは本当のことに違いないのですが、観ても観ても実感が湧きませんでした。
でもそこでやっととても大変なことになっているとわかりました。

その日わたしは、2階はすごく揺れを感じるので1階のリビングに寝ました。

床に直布団だったのでずーっと地響きと揺れを感じながらだったのでほとんど眠れませんでしたが。
この時はまだ、あんなに大勢の沿岸の人達が避難所や自宅等で、寒くしんどい眠れぬ一夜を過ごしていたとは知りませんでした。

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