忍者ブログ

いわて*まにあ

東北・岩手県(主に県南・ちょこっと宮城県北も)の暮らし・遊び・風景・名物・良いとこ・イマイチなとこなどなど、美化なく等身大でお届け!

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ふくしま~が~すき~♪

いい歌だ!一目(耳??)ぼれした! 岩手県人も福島応援してます!

拍手[0回]

PR

逞しい沿岸の人達!

夕方のニュース番組で、
早くも釜石では漁業の再開へ動き出した人達の、
大船渡ではお店を開け商売を再開しはじめた商店街の人達のニュースが
流されていました。

すごい!

ホントになんて逞しいんだろう!!

とても感動した。

ガソリンが手に入りにくいぐらいで「大変だー」なんてぼやいてらんない。

沿岸の人々の逞しさに、逆に力を頂いた気がする。

わたしもガンバロ!!

拍手[0回]

3.11 あの時何が起きていたのか②

地震当日のことを書いただけで疲労困憊してしまいました


ブログで紹介したお店や場所などほとんどが今回の大津波の影響を受けてしまいました。
高田の道の駅、道の駅のご飯やさん。
海と貝のミュージアム。
その他にも、ブログでは紹介していないけれど、広田方面に行く途中にいつか行ってみたいと思っていた海草ラーメンのお店や、コンビニ。

気仙沼で言えば、お気に入りの店になったばかりのアンカーコーヒー。
そのお向かいにあった、ふかひれラーメンの海の市。
なんと気仙沼のイオン(旧ジャスコ)にまで津波がきたとのことで本当にビックリしてる。
気仙沼も先月行ったばかりでした。

まだUPしてませんでしたが、志津川(南三陸町)にも先月行ってました。
岩手と宮城北部の沿岸はどこもそうなんですが、道が港と山とを上下に繰り返しながら通っています。
港に近くなると、”ここまで津波が来る怖れがありますよ”って津波警戒の看板が立っているんです。
志津川に行ってもそれはあって、「ここまで津波来たら家飲まれてしまうんじゃないか」なんて話してきたとこでした。
きっと地元の人達も警戒していたはずなんですが、今回の津波は軽々とその高さをも越えてしまったのでしょうね。

石巻にもよく行きました。

名取にもわたりにも行った。
あそこの温泉もどうなったかな。

叔母がかつて住んでいた松島、多賀城。
多賀城にまであんなに波が来るとは思わなかった。
職場もあの辺にあった従妹でさえビックリしていた。
多賀城のお店ももしかしたら影響あったかな。


高田も気仙沼もよく遊びに行っていたので、津波に飲まれたあのようすはとてもショックでした。
志津川にも行ったばかりだったので。
ホントに何にも残ってなくて。
今はまだテレビの画面を通じてしか観ていないからまだまだ夢のように実感がわかないけれど、実際その地に立ったならばショックで泣いてしまいそう。

高田、気仙沼、志津川等で会った人達。
知り合いでもなんでもないけれどちゃんと避難できていればいいな。

今は復興への道のりはまだ遠い感じだけれど、わたしはこの沿岸の街々が、復興して活気を取り戻す姿を紹介できるようになったら嬉しいなと思っています。

ほかにもうちょっと。

我が家は気仙沼へ通ずる国道沿いにあります。
毎日毎日、自衛隊や、警察、東京やら愛知、三重、あるいは四国方面の消防庁と、すごく遠いところからの応援隊の車両がたくさんやって来るのを見ていました。

IMGP0355.JPG
 
皆車両に乗って陸路で向かってきているのです(たぶん)。
それを見てすごく「ありがたいなあ」って思いました。
わたしは被災者じゃないんですが。
こんな遠くまで来てくれるなんて。
車での移動もラクじゃないのに、って。
すごいな疲れるだろうなって。
みなさん、ありがとうございます。

テレビで見ると、避難所の環境も着々と改善されているところもあるようでホッとしています。
でもまだしんどいでしょうね。
がんばってというのは苦手なので言いません。
なんだかひとごとみたいな気がしちゃって。
今は被災者の方々に何もできなくて申し訳ありません。
わずかなカタチでの援助と祈ることだけしかできなくて申し訳ないです。

拍手[0回]

3.11 あの時何が起きていたのか①

やっとネットの方も復旧しました。

3月11日 2時46分

わたしはその日もパソコンでネットをしていました。
家族は食材等を買いに出掛けようとしている時でした。

突然ガタガタと家が鳴り、地震が来たのだとすぐにわかりました。
岩手県南は大きい地震も何度も来ているし、地震には慣れていたのでこの地震もすぐに止むだろうと思っていました。
ところが、地震は収まるどころか、どんどんと揺れを強くしていき、とても家にはいられない状態に。
急いで外へと逃げました。

まだ地面は揺れていました。
玄関に戻ってみるましたが、まだ家の中がガタガタと強めに揺れていたので中に入るのを諦めました。

わたしの家は国道沿いにあります。
見ると向かいの空き地には、地震に驚いた車が何台か停まっていました。
そういえば通る車もやけに減っています。

お隣の家の安否を確認してから、どんな様子だろうと家に戻ると、まだどこからかゴォーっとした音がし、家がカタカタカタカタと鳴っていました。
『こんなにずっと揺れてるなんて・・・・気のせいだろうか』
そうも思いましたが、気のせいじゃないのです。

揺れに怯えながら、家に戻るともう停電していました。

震度がどれぐらいのものだったのか知りたかったのですが、テレビが見られないうえに、携帯のネットもつながりにくくなっていてやっぱりわかりません。

家に戻るのも不安、外は雪も降り始めていたのでしばらくお隣のおばあさんと飼っていた文鳥と共に車の中で避難していました。
父は近所の様子を見に出掛けました。
避難した車の中で宮城県利府町に住む従妹のメールをしてみました。
従妹も同じく車の中に避難し、車のテレビを観ているとのことでした。
地震直後だったのでその時はまだ津波の被害がどれほどだったのかわからなかったみたいで、従妹からは「凄いことになっている」という内容のメールはその時はありませんでした。

どれぐらい時間が経ったあとなのかわかりませんが、車のラジオを聴いていると「津波」が来ている(あるいは来た?)とのことでした。
「津波」という言葉は聞き取れましたが、興奮していてほとんどラジオの内容が頭に入ってきてなかったようです。
どこへ来た津波のことかは覚えていないんですが、ラジオでは
「車が多数流されています!家も流されています!」
との情報が流れていました。
その時わたしが想像した津波とは、去年のチリ地震の津波程度のものでした。
津波はひざ下ぐらいでもものすごい力があるとよくテレビで見ていたので車ぐらい流されてしまうだろうなと。
でも、時間を追うごとに津波の高さが4m、7m、10mなどと報道され、それでも最初はその数字にピンと来ずどれだけ大きな波が迫ってきていたのかその深刻度合いに気づかずにいました。
しかも、気仙沼だの、陸前高田などよく知っている地域がまさかあんなことになっていようとは。

そんな大事になっているとはまったく知らずにいた頃、わたし達は、今晩の食事はどうしようと考えていました。
地震から1時間経った頃、父と一緒に隣町まで買い物に出掛けました。

車は少し渋滞気味。
信号までも停まったままですから。

いつも買い物しているスーパーへ向かっていると、できたばかりのコンビニが車でいっぱいになっていました。
そのコンビニを通り過ぎ、いつものスーパーへ来ましたが、閉店していました。
引き返して、車でいっぱいだったコンビニに寄りました。
すると、お弁当などの棚はほぼ空状態。
カップめんがたくさんまだあったので、カップめんと、カロリーメイトのようなものを買って行きました。
中には水のボトルをたくさん買い込んでいる人もいて「わー大袈裟な」と内心思っていたのですが、後々断水にもなり(あるいは断水の恐れ)、あの人は先をよく見越していたなと感心しました。
こういう時はどんな可能性も考えておいた方がいいんだなと思いました。

買い物から帰ると、奥州市に仕事に行っていた弟がもう帰ってきていました。

もう家が揺れている感覚もなくなっていたので、家に戻ることにしました。

幸いと言うのか、昨年末に一度、長い停電を経験していたので、冬の停電の夜の過ごし方は心得ていました。
反射式のストーブも2つあったし、電池式のランプもありました。
ただ、灯油は保管しているものがポリタンク1個だけでした。

我が家は、なんでもマメに補充するタイプではなく、ぎりぎりまで待って買いに行くタイプだったのでいろんなことが大変でした。
灯油も今度の日曜日に買う予定でした。
食材も地震に遭うその日、その直前に買いに行こうとしていたところで、冷蔵庫はほぼ空でした。
お米は精米したばかりだったので大丈夫でしたが、これもいつもほとんど空になってから精米しに行くので危ないところでした。
ガソリンも同じこと。
給油はいつもぎりぎりになってから。
今回は幸い余裕があったから良かったですが、弟の車はガソリンが無く、地震があったその日を最後に動かしていません。

これからは、もっと余裕をもって補充なりしないとなと思いました(こんな時の買いだめはダメ。普段から用意しておかないとね)。
常に在庫がある状態が望ましいな、と。

地震初日の夜は、ガスが使えたのでカップめんを食べました。
そのガスもいまだいつ補充されるかわからない状態です。
電気が復旧するまであまり何も考えずにガスを使ってしまったなあと反省しています。

まさか、一週間以上経ってもガスもガソリンもこんなに不足状態が続くとは考えていませんでした。

寝る頃になって祖母の電気毛布が使えないと思い出し、予備の湯たんぽがなかったのでペットボトルにお湯をいれ湯たんぽ代わりに使ってもらいました。(ペットボトルはお湯が入れられないタイプのモノもあります)

夜は携帯ラジオがあって助かりました。
ウチはラジオが普段から入りにくいです。
特に昼間は。
千厩もラジオが入りにくい地域だったはず。
ラジオすらも聞けないと心細いです。

寝る前に弟の車で少しテレビを観ることができました。

そこには、火に包まれている気仙沼の様子が映し出されていました。
目の前で放送されているものは本当のことに違いないのですが、観ても観ても実感が湧きませんでした。
でもそこでやっととても大変なことになっているとわかりました。

その日わたしは、2階はすごく揺れを感じるので1階のリビングに寝ました。

床に直布団だったのでずーっと地響きと揺れを感じながらだったのでほとんど眠れませんでしたが。
この時はまだ、あんなに大勢の沿岸の人達が避難所や自宅等で、寒くしんどい眠れぬ一夜を過ごしていたとは知りませんでした。

拍手[0回]

岩手・宮城内陸地震

やっと、日常に戻ってきたような気がします。
ウチも近所も親戚も被害がなかったんですが、なんでしょうねえ。気疲れでしょうか。
ものすごく疲れた感じがします。
近所の方も「疲れたー。眠れない。」などと言ってました。
被害がなくてもこうなんですから、被災者の心身の疲労たるや。
想像もつきません。
とてもお疲れのことと思います。
早く平穏が戻るよう祈ります。
それから、復旧活動に携わっている職員の皆様、警察、消防、自衛隊の皆様方も朝早くから遅くまでの活動のことで本当に頭が下がります。市民の一人として有り難く感じています。

ウチの地域は高齢者がほとんどです。
独身者も多いのでおばあちゃんと息子さんというような少人数の家庭が多いです。
地震当日は、近所の方や身内など朝から晩まで入れ替わり立ち代りで我が家に集まってくれました。
岩手外に住む親戚からも心配の電話がありました。
このように訪問等していただくとホッとしますね。

それにしても、内陸直下型の地震に遭うとは。
宮城県沖地震には警戒してましたが、内陸で、しかも市内が震源地になるなんて想像もしてませんでした。
海の方だったら、大きな地震が来ても内陸はそんなに影響ないだろうと高をくくってたんです。
甘くみてました地震。
特にあんなに山がなくなってしまうようなことになるんだとは思いもしませんでした。
DSC01198.JPGほんとに、どこに居ても地震を意識していないと。
わたし達はああいう地形に囲まれているから、車で山道を走ることになる時は、食料を持っておくとか、車に毛布を積んでおくとかちょっと大げさかもしれないけどそれぐらいの準備しててもいいかなと思いました。
地震は天気予報みたいに何日も前から予測できないし、いろいろ準備しておくべきだなあと改めて思いました。

岩手だけじゃありませんでしたね。
宮城の栗原市は岩手よりももっと被害が多く、たくさんの方々が犠牲となりました。宮城の方々にも少しでも早く平穏な日常が戻ってくることをお祈りします。

拍手[0回]

ブログ内のお店の情報について

2011年3月11日の大震災により、ブログで紹介しておりましたお店や場所・観光地も残念ながら多数被害を受けたもようです。
ブログで紹介している情報は日付当時のものです。

カレンダー

03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

最新コメント

コメント返信について

コメント返信はこのブログの性質上一見返信がないように見えますが、ちゃんと返信させて頂いてますので、チェックしてみてくださいね。ただ、たまにコメントに気づかず見逃してる場合もあります(^_^;)

ブログ内検索

プロフィール

HN:
Amefuki-*jian*
性別:
非公開
自己紹介:
いわて県南在住

最新トラックバック

バーコード